〜最後に

      ▲このスコア、ネイティブ・サンのどの曲でしょう?
        (ヒント:ネイティブ・サンの大ヒット曲です)

いま、これを読んでいらっしゃるあなたはどんな方で、どういう経緯で本特別企画『Native Son』に辿りついたのだろう。
本田 竹広のファンでその関連サイトを調べているうちに−という方もいれば、筆者が制作している峰 厚介サイトや村上 寛サイトにリンクがあるから、そこから飛んできた−という方もいるだろう。
また、「そういえば、むかしネイティブ・サンっていうバンド、よく聴いていたから、ネットではどんな情報が出ているかな」と思って検索してみると、このサイトに着いた−という方もいらっしゃるかも知れない。

筆者のように長い間、ネットを主戦場にしてモノを書いている人間にとっては、どんな方が当方のサイトを読んでいるのかという点は、かなり気になるところでもあり、また知りたい部分でもある。

だが、それはそれとして「Native Son」というひとつのキーワードをもとに、このつたない文章を読んで頂いたことに対する感謝と、「ネットを通した、あなたと筆者との一期一会の出会い」を、とてもうれしく思う。


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さて、長々とネイティブ・サンについて書いてきた本企画だが、どんな言葉で締めようか−と、いまパソコンを前にして思い悩んでいる。
そうだ。ちょっと、ネイティブ・サンとは関係ない話から始めようか。。。。

個人的な話で恐縮だが、最近、自分でCDを購入する機会が少なくなった。サウンド・チェック用、テスト盤の類は業界から送られてきたりはするものの、自分で好みのCDを買うというのが、ほとんどない。それに比例するように、当然ながら音楽を聴く時間もめっきりと減った。
歳のせいだろうか? それとも音楽シーン自体がおもしろくなくなったからか?
おそらく両方だろう。

それに比べれば若い頃、10代から20代の時期は本当に音楽を聴いていたし、CDもよく買った。その頃は「レンタル・レコード屋」というものがあり(この言葉も今ではすっかり死語)、毎日のように借りまくって聴いていたから、正確な数は分からないが年間で1000枚近いアルバムに耳を通していたのではないか。

今、この歳になってよくよく考えるのだが、なぜあの頃、あんなに音楽を聴くという行為に熱中していたのだろう?
音楽を聴くという行為は、肉体的・身体的には「じっとしている」という状態であり、精神的には「一人の世界に入っています」というような、まあ非常に孤独な作業だ。しかし頭の中の一部分だけはカッカッとしていて、自分の気分にぴったりと合った音楽に出会うとアドレナリンが沸騰するような興奮を覚えて、そういう瞬間が堪らない。
そう、若い頃の自分は「音楽を聴いて興奮する」というのが好きな少年だったらしいのだ。
今から考えると随分不健康だし、格好悪いナアとも思う。音楽を聴くのは好きだけれど、不思議と楽器を自分でやってみようという気はまったく起こらなかった。 
もっと青春らしいアクティブな時間の過ごし方というのもあったのではないかーと反省もするのだけれど、まあ、これは今となっては仕方ない。

当時、筆者が一番よく聴いていたのはジャズとフュージョンだった。「スイングジャーナル」や「ジャズライフ」を毎月しっかり読んでは、学校での授業よりも、一生懸命に"勉強"した。
あの頃のジャズ/フュージョン・シーンは本当におもしろかった。フュージョンは最初"クロス・オーバー"等と呼ばれていてジャズ派には白眼視されていたのだが、あれよあれよという間に市民権を得てブームになっていった。ユニークなバンドが次々に出現し、話題作が毎月のようにリリースされて、人気のミュージシャン達が当たり前のように、お茶の間のテレビのCMに出演した。


筆者はジャズも好きだったから、ウイントン・マルサリス一派による「フュージョン止めい、やっぱりジャズだったらジャズだっちゅーの」という、フュージョン一派との"喧嘩"もおもしろかった。
今思うと、お互いもっと大人の態度で接する事が出来なかったのかとも思うが、ま、それだけ業界もリスナーも燃えていたのだろう。
ひとつのジャンルの音楽があれ程数年で変容し、エキサイティングな盛り上がりを見せた事はないだろうし、おそらくこれからもないと思う。

だから音楽を聴いてばかりいて「もっと有意義な青春を過ごしたかったナア」と思う反面、そんな時代をリアルタイムで過ごせた事に、かすかに幸せも感じている。


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様々なジャズ/フュージョンを耳にしたが、特に筆者が当時、入れあげていたのが渡辺 貞夫の音楽である。特に惹かれたのが、渡辺 貞夫が60年代から70年代半ばまでやっていた「ジャパニーズ・アフリカン・ジャズ」とも言うべき、CBSソニー・レーベルに残した演奏だ。具体的に言えばアフリカン・ミュージック100%の『サダオ・ワタナベ』に始まって、ひとつの完成形ともいえる『スイス・エア』に至るアルバム群である。
誰も声高に言わないけれど、この頃、渡辺 貞夫が確立した「私が考えるジャズ」ともいうべき、この「ジャパニーズ・アフリカン・ジャズ」は、本当にオリジナルな世界であり、他に比類がないヒューマンな魅力に満ちたスゴイ音楽なのだ。
ただし一般的にはマスコミ・メディアもファンも「フュージョン作品に至る過度期の音楽」としてしか評価が与えられていないのが残念だ。

そして、この「ジャパニーズ・アフリカン・ジャズ」の片翼を担っていたのが渡辺 貞夫バンドのピアニスト、本田 竹広だ。タッチが強烈でダイナミックにドライヴし、バラードでは一転して泣きのフレーズを連発する本田 竹広のピアノは、本当に光っていた。
76年のアルバム『渡辺 貞夫リサイタル』(イースト・ウインド)収録の「マライカ」でのメンバー紹介、渡辺 貞夫による「本田 竹曠、ピアノ」の呼び掛けに「オオ〜ッ」という観客からのひと際高い声援(中には笛を吹き出すやつもいる)を聞くと、いかに当時の本田 竹広の人気が高かったか、窺い知れるというものだ。

だから渡辺 貞夫グループ脱退後に、彼が結成した「本田 竹広が考えるフュージョン」とも言うべきネイティブ・サンの音楽に、私がどんどん傾注していったというのは自然な流れだったのかも知れない。

ともあれ、最後までこの特別企画を読んで頂いた方には、御礼を申し上げます。
今、各稿の文章を読み返してみたが、私のネイティブ・サンに対する主観と思い込みが強過ぎて「文章的にヘンだナア」という部分も何箇所かある。本当は修正すべきだろうが、何せこの駄文、修正すると切りがないから、あえてそのままにしておく。
ただ、この連載企画を書いたことで、今までモヤモヤとなっていたネイティブ・サンに関する想いがひとつになったという満足感はある。
自分の好きだった音楽について何か書くという作業は楽しいものだし、それを他の方に読んで頂くというのもうれしい事だから。

本田 竹広の訃報を聞いて「ネイティブ・サンも遂に永遠の最終章を迎えた」と、つくづく思う今日この頃だ。

     (以下、特別企画『ネイティブ・サン』はVer2.0へと続く)