〜ネイティブ・サン誕生〜



ビ・バップ発祥の地は「ミントンハウス」というお店だというのがジャズの歴史の通説になっている。このお店でチャーリー・パーカーやデイジー・ガレスピー、さらにチャーリー・クリスチャンらが夜な夜な繰り広げたジャム・セッション、これがビ・バップへと発展していったらしい。
ではでは、ネイティブ・サン発祥の地はどこか? もうこれはひとつしかない。そう、高円寺の老舗ライブハウス「JIROKICHI」である。
この「JIROKICHI」のマスター荒井さんが お店のホームページの企画で連載していた「次郎吉物語」でネイティブ・サン結成の経緯を次のように書いている。

「Cちゃんのバンドにゲストとして本田 竹広や峰 厚介が出演した時、大出 元信(ギター)、川端 民夫(ベース)が遊びに来て加わり、ご機嫌なセッションになった。
 このセッションで新しい何かを感じた本田さん達は何度もセッションを繰り返し、これに村上 寛(ドラム)や福村 博(トロンボーン)が加わり自然にできたバンドが、やがてネイティヴ・サンになった。4ビートのジャズにこだわらず、サンバやラテンのリズムを取り入れた新鮮なサウンドのオリジナル曲を次々に発表したネイティヴ・サンは、マクセルのCM曲の大ヒットで一躍人気グループになった。日本でのフュージョンやクロスオーバー・ブームに火をつけることになったこの曲は、パチンコ屋でもかかるほどヒットして、79年のアルバム「NATIVE SON」はジャズ系のレコードとしては異例の30万枚を売ったという」

これを読んでも分かるように、ネイティブ・サンはミュージシャンが、本当に心の底から「このメンバーたちと一緒に演奏したい」という強い想いを込めて生まれたバンドだった。
ネイティブ・サンは結果的に商業面で大成功を収めるのだが、それはあくまで結果論に過ぎない。レコード会社の意向やプロデューサーの計算などとは、一切無縁の旅立ちだったのだ。

基本的にネイティブ・サンは本田 竹広のバンドに峰 厚介が参加したような集団だったが、もうひとつ、この二人を結び付けた愛のキューピッド役がいる。そう、本田さんと峰さん両バンドのドラマーを務めていた村上 寛である。
ヒロシさんがある夜、本田さん、峰さんと一緒に飲んでいてこんな事を言ったという。「ねえ、本田さんも峰さんもさ、どうせ同じ事考えているんだから、一緒に演ればどう?」。
この言葉が引き金になって話しはトントン拍子に進み、遂にネイティブ・サンはこの世に生を受けることになるのである。

実際、ネイティブ・サン結成直前頃にライブ・レコーディングされたアルバム『ライブ・アンダー・ザ・スカイ"77〜ジャズ・オブ・ジャパン』での本田 竹広、峰 厚介の両バンドでの演奏を聴いてみれば、いかに二人が「同じ事を考えていたか」がよく分かる。
このアルバムに収められた峰さんの「オレンジ・サンシャイン」は初期ネイティブ・サンのライブでの重要レパートリーだったし、本田さんの「スピリッツ・フロー」でのエレピは、ネイティブ・サンそのものだ。だから二人が合体融合したのは自然な流れだったとも言える。

しかし合体して生み出されたエネルギーは半端なものではなかった。本田さんの提供するゴキゲンな楽曲とピアノ、峰さんのどっしりした安定感のある、やさしくもハードボイルドなサックス、村上 寛さんのタイトなドラム、まだ若いながらギター・スタイルが独特、かつ抜群のリズム・カッティングを刻む大出元信、バンドのボトムを強力に支えてたじろぐ事がない川端民生のベースと、このメンバーが決まった時点でネイティブ・サンの成功は約束されたようなものだ。
だが当のメンバーはそうは思っていなかったらしい。

以前、本田さん、峰さん、ヒロシさんにネイティブ・サンについていろいろ話を聞いた事がある。
その時、私はこの3人に同じ質問をした。質問はこうだ。「ネイティブ・サンが結成された時、あれ程爆発的な人気を得る事になると想像していましたか?」と。
本田さんの答えはあっけなかった。「いや、ぜ〜んぜん」。
また一方の峰さんも「いや、まったく・・・」とこちらも思わず、拍子抜けしてしまうような返事。
しかし唯一、ヒロシさん一人だけが「このバンドは絶対ウケる!」と確信していたという。さすがは愛のキューピッド役のヒロシさんである。
思うに結成時点でのネイティブ・サンの行く末を、一番冷静に見ていたのはヒロシさんだったかも知れない。

そして遂にレコード・デビューが決定してネイティブ・サン、その伝説の歴史の第一歩が始まろうとしていた。