ネイティブ・サン・アコースティック・ジャズ・バンド?〜

その頃の筆者はジャズのライブをやるということに、かなり熱くなっていたのだろう。
1999年の某日、「青森にネイティブ・サンを呼ぼう!」運動に失敗した私は、懲りることなく再び次なる行動に出た。ネイティブ・サンの次は「ケイ 赤城を青森に呼ぼう!」作戦である。

ケイ 赤城。元マイルス・デイヴィスグループのキーボーディストにして、カリフォルニア大学アーバイン校の芸術学、ジャズ・音楽理論教授。彼が青森県弘前市の東奥義塾高校を卒業したOBであるというのは人づてに聞いた事がある。せっかく青森で開催するジャズ・コンサートなのだから、青森ゆかりのミュージシャンを呼びたいと考えたのだ。

ケイ 赤城が峰 厚介と同じ事務所に所属している事は知っていた。
前年の98年秋に岩木山のふもとで行われていた「マウント・イワキ・ジャズ・フェスティバル」に峰 厚介クインテットが出演した時、それがきっかけで峰さんの事務所から年賀状を頂いた事があったが、その年賀状には所属ミュージシャンとして峰 厚介と共にケイ 赤城の写真もあった。
さっそくケイ 赤城のライブをこちら青森でやれないかという出演交渉の電話を事務所にしてみる。

ミュージシャンのマネージメント会社に電話をするという体験はその時が初めてだった。魚屋さんや八百屋さんに電話を掛けるのとは、ちょいと趣きが違う。当時はひどく緊張した記憶がある。
電話に出たのは「マウント・イワキ」でも会った峰さんのマネージャーのO氏だった。
彼によるとケイ 赤城は7月から9月上旬までは日本に滞在して国内のライブ・ツアーをしているが、それ以外はロスの大学で講義をしているため今の時期は不可能だという。
「ネイティブ・サンも駄目、ケイ 赤城も駄目か」と落胆している私に、O氏はマネージャーとしては極めて自然な、しかし私にとっては至極意外な事を言い出した。「ではうちの峰 厚介ではどうか?」。
私は一瞬逡巡した。確かに峰さんは私も大好きだが、峰さんのバンドをこちらに呼ぼうという考えは当初まったくなかった。どうしよう。。。。? 
だがその時、私の頭の中に閃いた事がひとつあった。
「峰さんと一緒に本田 竹広さん、村上 寛さんのバンドでやりたいんですけど、アレンジ出来ますか?」と私。マネージャー氏は「大丈夫、これにチンさん(鈴木良雄)を入れたカルテットでどう?」と言う。何かおもしろい展開になってきたゾ。
さらに厚かましくなった私は「このメンバーでネイティブ・サンの曲を何か演奏して頂きたいんですけど出来ますか?」と畳み掛ける。そう、昨年失脚した「ネイティブ・サンを青森に」の誘致失敗の雪辱を晴らすという考えだ。
マネージャー氏はしばらく考えてから「この編成だとネイティブ・サンとはかなり違うからやってくれるかどうかは分からないけれど、取りあえず峰さんに言ってみましょう」と言う。

電話をガチャリと置いた私はしばらく放心状態だった。
ケイ 赤城の代わりに峰さん、本田さん、村上 寛さんとネイティブ・サンのオリジナル・メンバーが3人も集まって、急遽こちらでコンサートをやることになったのだ。
話の急展開にこちらもビックリだが、それ以上に電話一本でジャズの業界に通じてしまうというのも不思議な気がした。
当時の私はあくまでいちリスナーであり、ジャズを発信する現場というのは遠い別の世界に感じていたのだ。
さてコンサート当日の9月15日はあっという間にやって来た。結局ベースはチンさんのスケジュールの都合が合わず、急遽荒巻茂生君に変更になったものの、私の興味は一点しかない。そう、このメンバーでネイティブ・サンの曲をやってくれるのか、はたまたやった場合どの曲を演奏するのかという事。
舞台袖でリハーサルを心配そうに眺めながら、私は「ネイティブ・サンの曲、出て来い!」と競馬場で万馬券を握り締めて興奮しているオジサンの心境だった。

しばらくして峰さんが「あれ、やってみようか」と一枚のスコアを取り出す。
出てきた音は待ってましたの「Wind Jammer」。ネイティブ・サンのアルバム『COAST TO COAST』に収録されていた本田 竹広のオリジナルだ。アルバム収録の同曲は完全にフュージョン・タッチだが、こちらは4ビートによる軽快な演奏。曲自体が良いせいか、ビートが違ってもそれほど違和感はない。本田さんのアコースティック・ピアノは快調だし、峰さんのサックスもゴキゲンだ。一曲だけだが昨年の雪辱を晴らすには充分な演奏だった。私は心の中で「これはネイティブ・サン・アコースティック・ジャズ・バンドだ」と呟く。
私の隣にいたマネージャー氏は「この曲は青森だけのスペシャル・テイクだからね」と微笑みながら言う。(今でもマネージャー氏には「あれは"ネイティブ・サンまがい"のコンサートだったね」と笑われているのだけれど)

コンサートは無事に終了した。
打ち上げの場で初めてマネージャー氏と酒を飲みながら落ち着いて話をする事が出来たのだが、彼からこれまた意外な申し出を受けることになる。「うちの峰 厚介とケイ 赤城のオフィシャル・サイトを作ってくれないか」。
これは私としては願ってもない事だった。その頃私はジャズ゙・ミュージシャンへのインタビュー専門サイト『BIG APPLE ONLINE』を開設していたものの、そろそろ誰かのオフィシャル・サイトを作ってみたいなあと考えていた時期だったからだ。
それに峰 厚介、ケイ 赤城のお二人も『BIG APPLE ONLINE』の中で"私設応援サイト"という形でサブ・サイトをすでに公開していた。このページにはアルバム・リストやインタビューも掲載していたから、これにBBSと最新スケジュールさえ貼り付ければすぐにオフィシャル化する手筈は整っていた。

いろいろな経緯はあったのだが、結局私は『BIG APPLE ONLINE』を閉鎖して峰 厚介、ケイ 赤城のオフィシャル・サイト管理人に専念する事にした。

当時『BIG APPLE ONLINE』はやっと10万アクセスを越えた時期だった。
ちょっと手前味噌な話になるが現在なら10万アクセス以上あるサイト等は珍しくもないものの、その頃90年代半ばから後半のサイトで、しかもジャズ等というマイナーなネットの世界で10万のヒットというのは相当なモノだった。
DJの小川 もこさんからも「『BIG APPLE ONLINE』を見て勉強しています」というメールを頂いたりして「いろいろな方に見てもらっているんだなあ」と思ったりした。
だから『BIG APPLE ONLINE』の閉鎖を惜しむ声も多々あったのだが、オフィシャル・サイトとインタビュー専門サイトを両立させるのは現実的に私にはとても無理な話だった。

峰 厚介、ケイ 赤城のサイトを本格的にオフィシャル化して公開したのは2000年頃からで、以後現在に至っている。
彼らはどこに行こうとしているのか、その姿をネットを通じてファンの皆様に伝える事が今の私の責務だと考えている。