〜 ネイティブ・サンの時代 〜


ネイティブ・サンの再結成? う−ん、とにかく呼ばれれば、何処へでも行くって
いう感じ? メンバーみんなやる気だからさ。
でもオレの気持ちとしては、ネイティブ・サンよりも、「ピュア」でひと暴れしたい
んだけどな。やっぱり、オレのこれからの活動のメインは「ピュア」になっていく
と思うよ。
ネイティブ・サンは、ライブをやるとしてもジロキチなんかで年に1回とか2回って
いう事になると思う。ジロキチでのネイティブ・サンのライブはビデオで撮ってある
から、そのうちインディーズで出る可能性もあるかもネ。

ネイティブ・サンがデビューした頃、あんなにウケると思ってたかって? いや、
全然。(きっぱりと)
ただ今、後悔しているのは「なんであの頃、もっとピアノを練習しておかなかった
のか」っていう事くらいかな。「この怠け者め!」っていう感じ。そのツケが今に
なってきてる。(苦笑) 

ネイティブ・サンは、当時オレのバンドとコ−ちゃん(峰 厚介)のバンドが合体して
結成されたわけだけど、”ネイティブ・サン”っていうバンド名はオレが付けたの。
ウイリアム・ボールディングっていう黒人の作家がいてね、彼の書いた小説に
「ネイティブ・サン」っていう作品がある。それで結成の時、「バンド名、何にしよ
う?」ってみんなで相談してたら、パッとオレの頭の中に彼の作品が浮かんでね。
「”ネイティブ・サン”が良いんじゃない?」って言ったら、みんなが「そうしよう」っ
て言うから、それでネーミングしたの。
「スーパー・サファリ」っていう曲名も、何となく語呂が良いから付けたっていう...。
そういうノリですよ。
ほら、あの頃の70年代ってさ、ブラック・パワーとか前衛的なものが流行してた
じゃない? だからオレも黒人文学とか、結構読んでたんですよ。

振り返ってみるとやっぱりネイティブ・サンの頃は、今よりもかなり自分でも曲を
書いてたよね。
っていうのは、あの頃はネイティブ・サン名義のレコーディングが多かったから
ね。レコ−ディングには曲が必要だから、「どうしても書かなきゃいけない」って
いう事情があった。だからそれに追われて、曲をゆっくり書くという時間はあまり
なかったよね。そういったレコーディングのための作曲っていうノルマを果たした
だけで...。まあ、そういった中で、ああいう曲の数々が出来ちゃったって事だ
よね。

ネイティブ・サンは3作目の『コースト・トウ・トースト』(アメリカでのライブ盤)から
トロンボーンの福村 博が参加して、フロントが2人になった。何故かって? 
やっぱり「バンドのサウンドをもっと分厚いものにしたい」って思ったからさ。
要するにバンドのエナジーが高くなるにつれて、曲のメロディをサックス一本で
支えるにはキツくなった。ネイティブ・サンのメンバーを増やす時には、「パーカッ
ションを入れる」っていうアイディアもあったんだけど、福村 博しか頭に浮かばな
かったしね。

ネイティブ・サンの時代っていうのは、オレにとってはまさに青春なの。あの時代の
頃の事を忘れようたって、忘れられるもんじゃない。そして、今がオレの”第2の青
春”なんだよ。

以下、本田 竹広インタビュー 〜 本田ファンへのメッセージ 〜 に続く)


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