〜新宿:歌舞伎町「カーニバル」の想い出(その1)

まぼろしのライブハウス■

さて、これからの各章はネイティブ・サンとは、あまり関係のないお話が続く。(といっても、バンドのメンバーはちらほらと登場はするが)
これはいわば、筆者の青春時代についてのあれこれであり、言い換えれば本企画の「付録」というか、「オマケ」というか、そういった類の話だから、興味のない方はすっ飛ばして別なサイトをご覧になっていただいても構わない。

これから書くのは、今はすでになくなってしまった、ひとつのお店の話である。自らの青春を振り返り、ネイティブ・サンについての様々な考えを馳せていると、どうしても、このライブハウスのことを思い出さずにはいられないのだ。
それは筆者が足を踏み入れたいと強く願っても、とうとう最後まで入ることが出来なった「幻のお店」でもある。
場所は新宿歌舞伎町。店の名前は「カーニバル」という。

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新宿、そして高円寺へ■

20才くらいの頃、ふと思い立って田舎を飛び出し、一年程東京で暮らしていたことがある。
何故上京したかといえば、こんなことを書くと今の若い方には笑われるかも知れないが、勇気を出して言ってしまおう。そう、東京のような大都会に憧れがあったから。
今ではインターネットをはじめとした様々な媒体のお陰で、都会も地方も情報発信の大小や伝達の早さ遅さはなくなり、様々な全国規模のフランチャイズ店の出現などで、日本のどこで生活しましょうが、たいした生活感の落差はあまり感じなくなってきている。
しかしその頃、田舎育ちの若造だった筆者には東京や大都会への根強い憧憬があった。

住む場所は高円寺に決めた。別にネイティブ・サン発祥の地であるライブハウス「JIROKICHI」が高円寺にあったからではない。単純に新宿が近かったからだ。今でもそうだが高円寺には都会らしくない下町っぽさ、垢抜けない街の雰囲気が残っていて、そこが気に入っていた。

当時の私にとって東京のイメージはイコール新宿だった。TVドラマ「太陽にほえろ!」の影響もあったからかも知れない。
ドラマよろしく、毎日のように新宿西口では殺人事件が起こって個性的な刑事が勇躍し、取調室で犯人が自供した後には、必ず刑事がカツ丼を犯人に差し出すと固く信じていた。
それに勝手な思い込みだが新宿に行きさえすれば、すぐに田中小実昌や阿佐田哲也、大島渚ら著名人に会えると思っていたのだ。

今考えると馬鹿な話ではある。
その頃の新宿は寺山 修司や唐 十郎らによるアングラ演劇の熱狂も過ぎ去り、文化的には何の魅力もない、単に大勢の人々が影のように流れるだけの街になりつつあったが、「新宿」という言葉には地方の少年の心を惹きつけるものが、まだ少なからず残っていたということだろう。

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映画と酒の日々■

当時、筆者の東京での生活ぶりがどんなものであったかは、今となっては記憶があやふやで、あの頃一体なにをしておったのか、自分でも細かいことはよく覚えていない。とにかく毎日新宿に通い、映画ばかり見ていた記憶がある。
ろくに仕事もせず、収入もほとんどなかった筆者が、なぜ毎日映画館に通うことが出来たかといえば、実は高校の同級生が歌舞伎町の映画館で働いており、彼に頼めばただで入館が出来たというわけだ。

それだけではない。彼は新宿で映画館を運営するスタッフの一人だったから、新宿で営業しているあらゆる映画館に無料で入館出来るという映画ファンには堪らない夢のような許可証を持っていた。
これは本当は書いてはいけないことなのだが、もう時効の話なので書いてしまおう。この許可証を毎日彼から借りては新宿の映画館を、ハシゴしてばかりいたのである。

朝遅く起きては高円寺のボロ・アパートを出て、中央線で新宿に出向く。所持金は往復の列車代とコーヒー代の数百円のみ。新宿周辺を意味もなくぶらつき、それに飽きると歌舞伎町に行って同級生から無料入館の許可証を借りては映画を見て時間を潰す。そして夜遅くアパートに帰っては、毎晩酒をあおって泥のように酔いつぶれて寝てしまうーというのが、いつの間にか筆者の「東京生活」になっていたのだった。

いま酒の話が出たが、東京にいた頃は本当によくお酒を飲んだ。一日も飲まずにはいられない気分だった。
一ヶ月もすれば4畳半のアパートに酒の空き瓶が山のようになっていて、自分でも怖くなったものだ。あんな飲み方をして、よくまあ身体を壊さなかったと今さらに思う。

時間だけは馬に喰わせるほどたっぷりとあった。目的のない自堕落な生活は、気楽といえば気楽だが、将来に対する不安は日々募る。たまに短期間のアルバイトはしていたが、月1万5千円の家賃や細々とした食費と酒代を支払うと残るお金はすぐに消え失せた。
いつも情けないくらいに金がなかった。
                 
あの頃の荒れていた自分を振り返ってみると、今こうして社会の落ちこぼれにもならずに人並みに生活しているという事が夢のような、というより奇跡に近いとさえ感じる。
新宿通いして映画を見るのは楽しいことだったし、東京にいるということ自体、気分的にうれしいものだったが、現実は厳しかった。

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夜の彷徨、峰 厚介とのすれ違い■

高円寺では昼夜逆転の生活だったから、夜になるとぱっちりと眼が冴える。
そんな時は真夜中にアパートを出て行き先も決めずに、意味もなく夜の街を徘徊したものだ。
住宅街に差し掛かると、よく警官に職務質問された。それはまあそうだろう。心ここにあらずーといった風情の若造が、夜道を彷徨っているのだから。そんな時は「ちょっと散歩に」とか「そこのコンビニに買い物を」とか言って、警官からいそいそと逃げるのだが、そのたびにバツの悪い思いをしたものだ。

この真夜中の街を彷徨している最中、高円寺の商店街でよく峰 厚介と出くわした。おそらく「JIROKICHI」でのライブが終わった後だったのだろう。右手に楽器ケース、左手には三平ストア(地元のスーパー)の袋を携えているという姿が多かった。
筆者は「ネイティブ・サンの峰 厚介だ」とすぐに分かったが、峰 厚介は当然のごとく当方のことなどまったく知らない。
真夜中の小道で見ず知らずの相手に、いきなり挨拶するというのも何となくバツが悪い話だ。
二人は「知らない者同士」としてすれ違う。。。。そんなことが何度かあった。

いま、そのシーンを思い出すと微笑ましくなってくる。
それから10数年後、彼の事務所を通して峰 厚介オフィシャル・サイトを筆者が担当することになるとは、この頃は夢にも思わなかったからだ。

まだインターネットというメディアが、この世に登場することなど予想もしなかった時代の話である。

 〜新宿:歌舞伎町「カーニバル」の想い出(その2)へ続く