〜新宿:歌舞伎町「カーニバル」の想い出(その2)

■『カーニバル』の扉の前で■

その年の夏、東京は本当に暑かった。
今でも夏が近づくと、あの新宿での暑い夏の日々を思い出す。

そんな風に歌舞伎町周辺をプー太郎よろしく、連日意味もなく漂っていた筆者だったが、ひとつだけどうしても気になるお店があった。そのお店とは新宿プラザ劇場の地下1Fにあったジャズのライブハウス「カーニバル」である。
同級生から借りた無料入館許可証を悪用し?新宿プラザで映画を見た後は、この「カーニバル」の前をうろちょろするというのがいつもの私の行動パターンだった。

当時「カーニバル」は連日大物ジャズ・ミュージシャンが出演するライブハウスとして新宿でもピカイチの有名店だった。
かすかに店の扉越しに店内を見るとカウンターの奥には高級な洋酒の瓶がびっしりと置かれ、いかにも大人の社交場といった佇まい。汚いジーパンとTシャツを着た私がおいそれと入店出来る雰囲気ではない。

私は何度、このお店に入ってライブを聴きたい−と思ったことだろう。
だが、金のない田舎出身の若造にとって「カーニバル」は、あまりに敷居が高いお店だった。
それに今までライブハウスという場所に行ったことがなかった私にはお店での料金システムというのがよく理解出来ない。「ミュージック・チャージ¥5.000というのがチケット代というのは何となく分かるが、ミニマム・チャージって何だろう?歌舞伎町のお店はどこも高いから、きっと何万円も取られるのではないか」。少年は困惑しつつ怯えた。

いま思うと笑ってしまう話だが、その頃は真剣だった。「カーニバル」の扉の前に鎮座している「本日出演のバンド」と書かれた看板だけはじっくりと眺め、お店の扉の向こうに素晴らしいステージが繰り広げられていることを夢見つつ、虚しく帰途に着くという日が続いた。

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「本田 竹曠&ビッグ・ファン」の出演■

ある日、「カーニバル」の前に立った私は、心がさざ波のように揺れた。本日の出演バンドは「本田 竹曠&ビッグ・ファン」とあるではないか。
この「本田 竹曠&ビッグ・ファン」は、ネイティブ・サン解散後に本田 竹広が新たに結成したエレクトリック・バンドである。後年、本田さん御本人から聞いた話によると「サウンド的にはネイティブ・サンと同じ」ということで、やはりネイティブ・サン時代のレパートリーもこのバンドでよく演奏していたらしい。
本田 竹広や峰 厚介が、よくこの「カーニバル」に出演しているのは毎回お店の前の「看板チェック」で知ってはいたが、ネイティブ・サン・フリークの筆者にとっては、何としても聴きたいバンドのひとつだった。
だが、しかし、やはりその時も、いつものことながらお金がなかった。ポケットには千円札が数枚しか入っていない。
やはり今日も私はいつものように「カーニバル」に入る事が出来ないらしかった。お店に入るのを断念した時の悔しい気持ちは今でも忘れることが出来ない。

「今はこんな自分でも、いつかは一人前の大人になって『カーニバル』で思いっきりジャズを聴くぞ!」
筆者はお店の前で固く決心するのだった。

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消えた「カーニバル」■

それから数ヶ月して私は東京での生活に見切りをつけ、田舎に戻ることとなった。
いくらこちらが都会に恋憧れていても、それはどこまでいってもツライ片想いであり、どうやら都会は自分を必要とはしていないーということに、だんだんと気づいてきたからだ。

田舎に帰っての生活も、アルバイトをしながらのその日暮らしーというものに基本的に変わりはなかったが「いつかは歌舞伎町の『カーニバル』へ」という思いは持ち続けていた。

そんなある日の日曜日、家で全国紙の大手新聞を読んでいた私に、ひとつの記事が眼に留まる。見出しには「歌舞伎町の名店ライブハウスのマスター、突然失踪す」とある。記事の内容はこうだ。
「新宿に店を構えていた名物ライブハウス『カーニバル』のマスターが、突然姿を消した。店は前日営業されたままの状態。店を賃貸していた大家は困惑し、出演が決まっていたジャズ・ミュージシャンにも、衝撃が広がっている。マスターの行方は依然として不明で、店の今後が心配される。。。。。」

記事には「失踪」とやんわりと書かれていたが、それが現実的にどういうものなのかは、誰の目にも明らかだった。マスターは店の経営難から資金繰りが悪化して、身体ひとつで「夜逃げ」したのだ。
ネオン眩い歓楽街・歌舞伎町は表向きは華やかでも、裏では多額の現金が動く商売人にとってはシビアな勝負の世界でもある。「カーニバル」のオーナーでありマスターだったこの人物は、この勝負に一敗地まみれ、歌舞伎町から姿を消したということなのだろう。

一体「カーニバル」のマスターとはどんな人物だったのだろう。そしてマスターはどこに行ったのか。いや、それ以上に「いつかは歌舞伎町の『カーニバル』でジャズのライブを」と、心に決めていた私にとって、その夢が消えうせてしまったことの衝撃の方が大きかった。


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そして、出会いは突然に■

それから歳月は流れる。
30歳を過ぎた私は家業を継ぎ、結婚して子供にも恵まれた。住む場所はボロい県営住宅だったが、一人前に玄関に表札も出し、何とか人並みの生活を送っているという実感が芽生え始めていた。

そんな心の余裕が生まれてきたからだろう。30歳半ばから筆者はジャズのサイト作りに熱中し始め、ささやかながら地元でジャズのライブを手掛けるようになっていた。

そんな経緯もあって当時、青森県弘前市にある岩木山の麓で毎年開催されていた「マウント・イワキ・ジャズ・フェスティバル」を主宰されていたY氏と懇意にさせて頂く事になる。
Y氏はもともと地元の市職員だったが、ジャズ好きが高じて市の予算に頼ることなく、自腹で「マウント・イワキ・ジャズ・フェスティバル」を開催しているというガッツ溢れる方である。

私はY氏に「青森に本田 竹広トリオを呼んで、県内ツアーをやりませんか」と呼びかけた。生粋の本田フリークであるY氏が乗ってこないわけがない。話はトントン拍子に進み、弘前市・青森市・下北郡大畑町の3箇所で開催される運びとなった。

この久々の青森ツアーには、本田 竹広本人も大乗り気で、リズム・セクションの他にパーカッションのダミオンも一緒に連れて来るという。ダミオンが来るからにはジャズだけではなく、サンバやボサノヴァも演奏するのは明らかで、観客もきっと盛り上がることだろう。私は期待に胸を弾ませながら、ツアーの準備を進めた。
だがハプニングはこれだけではなかったのだ。

ツアー初日の弘前市の会場、リハーサルを終えてミュージシャン、スタッフが一服している時、Y氏が「あなたに、ぜひ紹介したい人物がいる」と言う。
私の前には細身で、若い頃はさぞ美男子だったろうーと思わせる初老の紳士が立っていた。

そしてY氏は意外なことを言い始めた。
「この方が、新宿歌舞伎町で『カーニバル』を経営していたマスターだよ」と。。。。。


  〜新宿:歌舞伎町「カーニバル」の想い出(その3)へ続く