〜新宿:歌舞伎町「カーニバル」の想い出(その3)

「カーニバル」のマスター、その波乱に満ちた人生■

私は絶句した。
この眼の前にいっらっしゃる初老の紳士が私が若い頃、あれ程恋焦がれ「いつかはこの店でライブを」−と誓った歌舞伎町「カーニバル」のマスターなのだ。
しかし歌舞伎町から姿を消して行方不明になったマスターが何故「マウント・イワキ・ジャズ・フェスティバル」の主宰者であるY氏と知り合いなのか。そして何故この青森県弘前市にいらっしゃるのか、私の頭は混乱するばかり。

Y氏によるとマスターは青森県弘前市出身という。現在は弘前市でライブハウスではないものの、やはり「カーニバル」の店名で小さなスナックを経営されているらしい。
しかもだ。ジャズ・ピアニスト、ケイ 赤城の母校・東奥義塾高校の事務長であり、彼の同校でのコンサートを取り仕切っているI氏と「カーニバル」のマスターとは高校の先輩後輩という間柄というではないか。灯台下暗しとはこの事だ。

コンサートが終わった後の打ち上げの席、本田さんを囲んで「カーニバル」のマスターと歌舞伎町での出来事をいろいろ語り合った。

マスターは高校生の頃、女子学生の追っかけがいたほどの美男子だったらしい。弘前市の高校を卒業した後は俳優を目指して上京、ある劇団に入団する。
しかし俳優の夢破れ好きなジャズでメシを食っていこうと決心、歌舞伎町でジャズのライブハウスを開業することになる。それが「カーニバル」というわけだ。

マスターは語った。
「今ではワン・ステージ何百万円も取る大物ボサノバ歌手も、その頃はデビューしたばかりで売れなかった。それでうちの店で一晩一万円のギャラで出てもらったこともある。あの頃の本田さんはよく飲んでいたな。飲むのはラム酒とかスピリッツ系のアルコールが高い酒ばかり。しかもツマミは一切食べない。でも塩辛はよく食ってたな。あれじゃ本田さん、身体壊すよ。(笑) 本田さんが珠也を最初に店に連れて来た時なんか、珠也はまだ小学6年生くらいだもんな。あの坊主がこんなになるなんて。立派に成長したもんだ」
そんなマスターの言葉に本田さんは照れ臭そうな笑いを浮かべる。

「でもあの頃は、本当に店の経営は苦しかった。それであんなことになっちゃったわけだけど。。。。でも店を捨てたとき、オレは店の財産に一切手を触れなかった。身体ひとつで歌舞伎町を去ったんだ。でもひとつだけ、店から持っていったものがある。それはこれまで店に出演してくれた、ミュージシャンのサインが書かれた壁紙さ。店の壁からその部分をきれいに切り取って、それだけ持って店を出た。だってこれはオレの宝物だったし、オレのこれまでの人生の唯一の財産、生きた証のようなものだったから」

私はマスターの言葉を聞いて、複雑な心境になった。
若い頃の私は、確かに金もなく店に入ることも出来ず、ただただ「カーニバル」の扉の前に立ち尽くすだけだった。
しかし、この扉の奥には経営難という、どうしようもなく重い現実が店にも、マスターの肩にも圧し掛かっていたのだ。
希望を持って上京し、夢破れて都会を去ることになった私とマスターは同じ境遇だったといえなくもない。

若い頃の私にとって「カーニバル」は良くも悪しくも、夢を与えてくれた場所だった。そして店の中で繰り広げられる、華やかなステージを取り仕切っていたマスターにとっても、それはひとつの夢だったのかも知れない。
しかし、その夢の代償はあまりにも大き過ぎた。。。。。

私は思わず、若い頃からの「カーニバル」への熱い思いを語った。
「私も若い頃、一時期東京で暮らしていたことがあって『カーニバル』によく行きました。でもその頃は金がなくて店に入ることが出来なくていつも辺りをうろちょろしてばかりいた。いつかは『カーニバル』でライブを−と思って大人になったようなもんです」

するとマスターはにっこり笑ってこうおっしゃる。
「な〜んだ、お前さんがオレと同じ青森の人間だと分かっていたら、タダでもすぐに店に入れてやったのにさ」

その言葉を聞きながら私は若い頃からの心の重荷がようやくひとつ降りたような気がしていた。
確かに私はとうとう一度も歌舞伎町「カーニバル」に入ることは出来なかった。だがそれはそれで良かったのかも知れない。夢は叶わない限り、どこまでも心に夢として存在するものだから。


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全ては遠く蜃気楼の彼方へ■

もし、この世に神様とやらがいて「お前さんを青春時代に戻してやるよ」と言われたら、私はすぐに「真っ平御免」と首を振るだろう。しかし一日だけ、という条件つきなら考えてもいい。

そして一日だけ青春時代に戻った私は、迷うことなく新宿歌舞伎町の「カーニバル」に足を向ける。
今日も新宿プラザ劇場の地下には「カーニバル」のネオンが幻のように輝き、「本日の出演バンド」の看板には「本田 竹曠&ビッグ・ファン」と大書きしてある。
今日の私は汚いジーパンとTシャツ姿ではなく、パリッとしたスーツを着込み、懐には万札も数枚忍ばせてある。怖いものはなにもない。

「カーニバル」の扉の向こうで、本田 竹広は今日も塩辛を肴に酒を飲んでいることだろう。大出 元信は今夜もリハーサルで、本田さんに叱られているだろうか。その傍らには少年の面影を残した本田 珠也がいて、北海道から上京してきたばかりの米木 康志もいる。
そして何より私と同じ青森県出身のマスターが、快く迎えてくれるに違いない。
「さて今日はどんなサウンドが聴けるかな。ネイティブ・サンのレパートリーやってくれないかなあ」
私は心躍らせつつ「カーニバル」の扉をガチャリと開ける。。。。


現在、新宿コマ劇場も「カーニバル」が入居していた新宿プラザ劇場さえも、土地再開発とやらで閉館、辺りはすっかり寂れ、私が青春を過ごした歌舞伎町も様変わりしつつある。

「カーニバル」も、あの頃の歌舞伎町も今となっては全て夢の中、遠く蜃気楼の彼方へと消えてしまったのかも知れない。

 〜最後に〜へ続く