〜検証:ネイティブ・サン(1)〜



日本のフュージョン・シーンにおけるネイティブ・サンの特異性■

ネイティブ・サンとはいかなるバンドだったか。
その事を具体的に論証した資料・文章は当サイト以外にはない。音楽を論じるのは雑誌の媒体に書いている、いわゆるジャズ評論家と呼ばれる方々達であり、しかも彼らはフュージュン・ミュージックをジャズよりも一段も二段も、いやいや百段も下に見下ろしているふしがある。またリスナーもリスナーで「楽しんで聴ければそれでいいじゃん、はい御終い」というのが現状ではなかろうか。

それはそれで良いかも知れないが、しかしあまりにも勿体ないことでもある。
特に70年代後半から80年代半ばまでの日本のジャズ/フュージョン・シーンを今一度冷静に振り返ってみれば、ネイティブ・サンというバンドがいかに特異な存在だったのかが見えて来るのである。

ネイティブ・サンは本田 竹広のバンドだ。まず、これを押さえておきたい。ネイティブ・サンは本田 竹広と峰 厚介の双頭バンドだと思っているファンもいるかも知れないが、そうではない。
ネイティブ・サンは本田 竹広が、渡辺 貞夫バンドで得た経験と音楽センスを総動員して作り上げたバンドなのである。ネイティブ・サンのステージは終始一貫して本田 竹広がMCを務めたが、これも「ネイティブ・サンはオレのバンドである」とファンに強く印象付けるためだったかも知れない。

それでは峰 厚介はバンドの中ではゲスト扱いだったのかと言えば、これもそうではない。ネイティブ・サンは峰 厚介が加わってこそ成立し、あれ程の音楽的爆発力を得る事が出来たのである。

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峰 厚介と本田 竹広、二人の音楽人生の軌跡とは■

本田 竹広と峰 厚介はお互いに長い音楽歴の中で、ネイティブ・サンをはじめとして共演の機会が多かったため、ファンの中にはその音楽的資質が極めて近いと勘違いしている人も多いかも知れない。
しかし両者の志向性、作曲センスには水と油程の違いがある。それはお二人のネイティブ・サン結成前と解散後の足取りを見れば明らかだ。

まずネイティブ・サン結成前と峰 厚介脱退後の二人の足取りを振り返ってみよう。
本田 竹広はデビューの頃からスターだった。クラシックからジャズに転向した本田さんは横田の米軍基地で腕を磨きながらトリオ・レーベルの専属ピアニストとして迎えられ、数々のリーダー・アルバムを吹き込んでいく。音楽的スタートを切ったばかりの若造が、ひとつのレーベルに定期的にリーダー・アルバムを録音するというのは今考えれば相当ラッキーな事だった筈だ。

もちろん若い本田 竹広に、それだけの実力があったという事でもあるが、音楽的スタートにこうした僥倖(ぎょうこう)を得られたジャズ・ピアニストは、当時は稀だったろう。
そしてトリオ・レーベルから次々とアルバムを発表しながら、遂に日本のトップ・コンボ渡辺 貞夫バンドのピアニストの座を射止め、以降本田 竹広は日本のジャズ・シーンの最前線に躍り出るようになるのは周知の通り。
輝かしいシンデレラ・ジャズ・ボーイ物語である。

一方の峰 厚介は本田さんとは違って苦労人だ。すし屋の倅に生まれた峰さんはジャズ喫茶で耳にしたファンキー・ジャズに魅せられ、ジャズ・ミュージシャンを志すようになる。音楽的スタートはキャバレーでの演奏活動。酔客相手にサックスを吹く生活が続く。峰 厚介にやっと運が巡ってきたのは1969年に菊地 雅章バンドに加入してから。
当時の菊地 雅章バンドには「ダンシング・ミスト」というヒット曲があった。この曲でソプラノ・サックスを吹く峰 厚介は評判となり、1970年にはスリー・ブラインド・マイスから初のリーダー・アルバムも発表している。(注:峰 厚介の初リーダー・アルバムは、データ上では70年にフォノグラムに吹き込まれた『峰 厚介ファースト/モーニング・タイド』だが、現在では入手困難。ヤフオクでは¥15.000以上の値が付く)

しかし峰 厚介の苦労人人生はまだ続く。菊地 雅章バンド解散後はニューヨークに渡って音楽的武者修行、弁当屋さんのアルバイトをしながら糊口を得る日々だったという。
1975年に帰国後はすぐに自己のバンドを結成して演奏活動を開始する。

以上が本田 竹広と峰 厚介のネイティブ・サン結成前の足取りである。
それではネイティブ・サン解散後のお二人の軌跡はどうか。

本田 竹広はネイティブ・サン解散後も、「ビッグ・ファン」「ファンク・バンド」「アフリンバ」、そして「ザ・ピュア」とジャズ以外のジャンルに手を伸ばす姿勢は最後まで崩さなかった。そして最晩年はクラシックにも挑戦し、紀尾井ホールでコンサートも開いている。

一方の峰 厚介はデビューから現在まで一貫してジャズを追及している。ネイティブ・サンを脱退した後に結成した自己のバンド「峰 厚介クインテット」はピアノ、ベース、ドラムス、ギターとネイティブ・サンとほぼ同じ編成ながら、展開されたサウンドはまるで違う。両バンドに在籍していたのが同人物のサックス奏者とは思えない程の開きがあるのだ。
峰 厚介のテナー奏者としてのスタートには常にコルトレーンの影響があったが、ネイティブ・サン脱退後の「峰 厚介クインテット」、そして最近の「峰 厚介カルテット」では飄々とした、それでいてダークネスな持ち味を生かした歌心溢れる独自のジャズを演奏している。実際、峰 厚介がサンバやボサノバを演奏するというのは、その音楽的キャリアの中でネイティブ・サン以外にはなかった。

解散以後は同じステージでの共演は多々あったものの、音楽的な資質とその軌跡という意味では遂に二人は交わる事がなかったといえるかも知れない。
だが逆説的にいえば、だからこそタイプが違う二人が結成したネイティブ・サンはユニークで、他のフュージョン・バンドとは一線を画す実力と個性を持っていた−といえるのではないだろうか。

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峰 厚介(ts、ss)の役割とその重要性■

ネイティブ・サンの大きな特徴として、結成時のオリジナル・メンバーのほとんどが、純粋なジャズ・フィールドからのミュージシャンばかりだったという点が挙げられる。つまりフュージョンやロック畑出身のミュージシャンがいないのである。
だから当然といえば当然だが、特に初期のネイティブ・サンは他のフュージョン・バンドと違い、ジャズのフィーリングが濃厚で、メンバーそれぞれがスリルに満ちたアドリブを繰り広げていた。

そして、この「ジャズのテイスト」を最も具体化しつつ、硬質で辛口な大人の味わいを感じさせるバンドのサウンド的カラーを担っていたのは峰 厚介ではなかったか。
峰 厚介が曲のテーマを奏で、サックスを吹き散らすだけで、たとえエレクトリック音楽と言えどもジャズの匂いがプーンと漂ってくる。ネイティブ・サン結成以前も、そして脱退以後もジャズを離れる事がなかった峰 厚介にとって、ネイティブ・サンの音楽はビートは違えど、ジャズを演奏するという事に変わりはなかった。

こう書くと本田 竹広ファンから「本田こそ、真のジャズ・ミュージシャンなのだ」という猛烈な反対意見が返ってきそうだ。
そう、確かに本田さんはジャズがヒトの形をしてそのまま歩いているような、根っからのジャズ・マンだった。
だが、しかしことネイティブ・サンに限っていえば本田さん、作曲の面では意識的にジャズのテイストを封印していたふしがあるのだ。それは本田さんがネイティブ・サンに提供した、楽曲の数々を聴いてみれば明らかだ。どの曲にもストレートなジャズのフィーリングはあまり感じられない。本田さんがネイティブ・サンで追求していたのはジャズそのものではなくサンバ、ボサノバ、レゲエ、アフリカン・ミュージックといったワールド音楽をもっとポップにしたものだったというのは間違いない。

他のフュージョン・バンドにはないジャズの香りは峰 厚介、村上 寛、川端 民生らに任せ、子分の大出 元信には純粋なフュージョン・ギターを弾かせて、本田 竹広自らは音楽監督としてバンドにゴキゲンな曲とピアノを提供していくーというのが、初期のネイティブ・サンの役割分担である。

確かにネイティブ・サンは本田 竹広のバンドだったが、だからと言って峰 厚介がサイドメンの一人だったというわけでは決してない。
冒頭にも書いたがネイティブ・サンは峰 厚介が参加したからこそ、バンドとしてのダイナミズムと圧倒的なエネルギーを得ることが出来たのであり、本田 竹広と峰 厚介の経歴を含めた音楽的な資質の違い、そこから生まれるサウンドの危うい拮抗(きっこう)こそが、ネイティブ・サンの魅力だったとも言えるだろう。
それは峰 厚介が参加した初期/中期ネイティブ・サンと、彼が脱退したあとの後期ネイティブ・サンを聴き比べてみればすぐに分かることだ。

因みに峰 厚介は1944年、本田 竹広は1945年生まれ。
本田さんは峰 厚介を「コーちゃん」と呼び、峰さんは本田 竹広を「本田君」と呼ぶ。こうした二人の親密な間柄はネイティブ・サン解散後も、本田 竹広が亡くなるまでずっと続いていくことになる。


                           以下、〜検証:ネイティブ・サン(2)〜へ続く