〜検証:ネイティブ・サン(3)〜



ネイティブ・サンの成功■

「ネイティブ・サン」というバンド名の由来は黒人作家リチャード・ライトが1940年に出版してベストセラーとなった『Native Son』(邦題「アメリカの息子」)からきている。バンド結成当時、黒人文学に凝っていた本田 竹広が命名した。
この『Native Son』という小説、その内容はといえば誤って白人娘を殺し、さらにその犯罪の発覚を恐れて自分の情婦まで殺した黒人青年が裁判の結果、電気椅子(いす)に送られるというかなり悲惨な物語。
因みにこの『Native Son』は1986年にマッド・ディロン主演で映画化されてもいる。
筆者は原作本も映画もまったく眼を通していないが、もちろん音楽のネイティブ・サンとはまったく内容的には関係ない。

Native Sonは直訳すると「その土地で生まれた人」となるが、ジャズという土地に生まれたミュージシャン達はフュージョンという翼を得て一気に飛翔、全国的にポピュラーな人気を得ていくことになる。
結成当時のネイティブ・サンがいかに凄まじい人気を誇っていたか、またどんな演奏内容だったかについては『ネイティブ・サン Ver1.0』に詳しく述べてあるからここでは割愛する。
とにかくお茶の間からパチンコ屋から、そしてスーパー・マーケットからこのバンドの音楽が流れてきて、日本のジャズ/フュージョン・シーンの中では異例の成功を収めてゆく。

ただひとつ確実にいえるのは、この頃70年代後半の本田 竹広は作曲者としてその音楽人生の中で何度目かのピークを迎えていたということだ。
デビュー・アルバム『NATIVE SON』を始め、次作『SAVANNA HOT-LINE』、ライブ盤『COAST TO COAST』といったネイティブ・サン初期に発表された作品群に収録された本田 竹広によるオリジナル曲の数々は、綺羅星の如く燦々と輝いていた。

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『RESORT』、そして『GUMBO』■

本田 竹広という人は「自由な精神」というものを尊重する人である。これまで自分が親しんでいたジャズ以外の他のジャンルの音楽に挑戦して曲を作るというのは無上の喜びを伴った作業だったはず。
だがしかし、同時にそこに「油断」もあった。
ジャズ以外の音楽をバンドに取り入れるのは良かったが、その作業に深入りし過ぎた。
アルバム『RESORT』以降、ネイティブ・サン丸を操る本田船長の計算に少しづつ狂いが生じ始める。
この頃からすでにネイティブ・サン凋落の予兆は始まっていたのかも知れない。
以下、中期のアルバムを中心に具体的に述べてみる。

ライブ盤『COAST TO COAST』の次作『SHINING』のタイトル曲「SHINING」で、バンドは初めてラテン/レゲエに挑戦している。ここで何かのヒントを得たメンバーは、次作『RESORT』でバハマはナッソーに飛び、本格的なレゲエ・ミュージックに挑むことになる。
その結果はどうか。初期のバンドが持っていたジャズ的なダイナミズムとパワーは薄れ、ゆったりとしたレゲエのリズムをバックに、気持ちよさそうに演奏するメンバーたちに、多くのリスナーは奇妙なズレを感じたのではなかったか。

当時は私もその一人だった。『Savanna Hot-Line』と『RESORT』が、同じバンドの音楽とは思えない。
かすかにネイティブ・サンらしさが出ているトラックといえば、A面1曲目の『BAY STREET TALKIN' 』と2曲目の『 NITE OF LIMBO 』くらいか。
以下のトラック、特に『RESORT』のレコードでいえばB面収録の全曲からは、初期のバンドにあった熱気と狂おしいエネルギー、ハードボイルドな魅力がほとんど感じられなかったのを覚えている。

ジャズというのは基本的にマイナーで路地裏通りが似合う、ヤクザな音楽だと私は勝手に思っている。初期のネイティブ・サンには確実にそれがあった。そしてその気分を充分過ぎるほどよく分かっている、生粋のジャズ・ミュージシャンである本田 竹広、峰 厚介、村上 寛らが平和に楽しく、のんびりとレゲエを演奏するーというのが理解できなかったのだ。

別にレゲエ・ミュージックが悪いーといっているのではない。
しかし敢えてレゲエに挑戦するのなら、ネイティブ・サンというフィルターを通した持ち味というものが、もっとあっても良かった。私にはその持ち味が、あまり感じられなかったということなのだろう。

▲ネイティブ・サン中期のアルバム群(左から):『SHINING』『RESORT』
  『Carnival Live at Montreux』
『GUMBO』

この『RESORT』の失敗に、本田さんも懲りたからだろうか。
次作のテーマに本田 竹広が選んだのは「軟弱なレゲエ」ではなく「硬派なジャズ」である。
本田 竹広がこのアルバム『GUMBO』で採用した作戦は、「自分の過去のジャズ作品をピックアップして、フュージョン・タッチに演奏する」というものだ。

こうして意図の下、選曲されたのはロン・カーター、トニー・ウイリアムスのトリオで録音した77年のアルバム『ANOTHER DEPARTURE』から「Calipso Street」「Longing」、また同トリオとのアルバム『REACHING FOR HEAVEN』からの「Lazy Dream」となる。
それにネイティブ・サンとしては異色ともいえる、ソロ・ピアノでの本田 竹広の新曲「Gumbo」を書き下ろし、これをタイトル曲にしたのも「これはネイティブ・サンによるジャズ作品ですよ」と宣言したかったからかも知れない。
(注:この『GUMBO』収録の「Longing」は、1990年の本田 竹広トリオによる『BACK ON MY FINGERS』では、逆にアコースティックなジャズ作品として再演されている)
                           
そんな本田 竹広の制作意図はこのアルバムで成功したか。
本当に残念なことだが否である。
いくらフュージョン・タッチにアレンジしても、もともとはジャズ作品を前提として書かれた曲ばかりだったから、どうしても無理がある。もしジャズがテーマだったのなら、ネイティブ・サンという器に沿った、それらしい本田 竹広による新曲を書くべきだった。
それにジャズ的なフィーリングがバンドにほしいのなら峰 厚介がいる限り、自ずと生まれてくるはず。
過去のジャズ作品の再演をネイティブ・サンでやるーという試みは、あまりにも容易で安直な手段だった。

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ネイティブ・サンのジャズ・アルバム『SQUARE GAME』■

因みに「ネイティブ・サンのジャズ作品」といえば、一枚のアルバムを思い出す。ネイティブ・サン名義ではなくザ・カルテットというバンド名で、1981年に吹き込まれた『SQUARE GAME』。
チンさん(鈴木良雄)を中心にネイティブ・サンのトリオ陣、峰厚介(ts) 本田 竹広(p) 村上寛(ds)が参加。チンさんの「ペルシアン・ブリーズ」、ヒロシさんの「ナイト・クライ」といった佳曲が収録された作品で、いうなれば「アコースティック版ネイティブ・サン」、または「裏ネイティブ・サン」ともいえる内容。
もしネイティブ・サンがジャズをテーマにした作品をリリースしたかったのならば、この『SQUARE GAME』のサウンドをもっと洗練されたフュージョン・テイストに仕上げ、バンドの持ち味のひとつでもあるジャズの香りを前面に出したアルバムだったなら。。。と考えるのは私だけだろうか。

▲SQUARE GAME /TheQuartet

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本田船長の舵裁き、その誤算とは■

さてこのように中期のネイティブ・サンはレゲエにジャズにと、そのバンドの音楽的志向は大きくぶれ始めていた。
これはひとえにネイティブ・サン丸を操る本田 竹広船長の舵捌きが、乱暴というか性急というか、とにかく過激過ぎたからだ。
                     
もともとネイティブ・サン丸にはジャズ50%、フュージョン50%というウェル・バランスなエンジンが積載されていた。
他のジャンルの音楽に手を出すのなら、船室の壁の張替えや模様替えだけで良かった。しかし本田船長はバンドの持ち味でもある、このエンジンまでにも手を加えようとする。先にも書いたが、あまりに他のジャンルに深入りし過ぎるのだ。
だからリスナーも新作アルバムを買う度に毎回ネイティブ・サンのような、そうでないようなサウンドを聴かされて、何となく違和感を覚えるという結果となってしまう。

バンドが進化するのは良いことだが、ことネイティブ・サンに関しては結成当時からすでに音楽的完成度はかなり高かった。それはネイティブ・サンが昨日今日音楽を始めたばかりの「若造フュージョン・バンド」ではなく、本田 竹広や峰 厚介、そして村上 寛といった音楽を知り尽くしたベテラン・ミュージシャンが結集していたからだ。別に進化などせずに結成当時の持ち味を生かしたまま、一直線に突っ走っても良かった。
だがそうしなかった、いや出来なかったのは彼らがやはり生粋のジャズ・ミュージシャンで常にサウンドの変化を求めていたからだろう。ひとつのところに留まって同じ演奏を繰り返すということは、メンバーにとっては到底無理な話だったのだ。

そしてバンドのサウンドを常に進化させ、変化せざるを得なかったということがネイティブ・サンの美点でもあり、また同時に大きな悲劇でもあったというのはなんとも皮肉なことではある。

レゲエやジャズに挑戦しても思うような結果が出たとは言い難い。残るのはポップスしかない。
以下、後期のネイティブ・サンはこのポップ路線をひたすら走ることになる。

本田 竹広の悪戦苦闘は続く。

  以下、〜検証:ネイティブ・サン(4)〜へ続く