〜検証:ネイティブ・サン(4)〜



もう一人の主役の退団■

ネイティブ・サンとしては峰 厚介最後の参加となる『DAY BREAK』を聴くと「ああ、峰 厚介の居場所はこのバンドにはどこにもなくなったなあ」と感じてしまう。
ここで展開されているフュージョンとしては限りなくポップ・ミュージックに近いサウンドは、峰 厚介の音楽的資質と最も相反したものだったかも知れない。峰さんにとってはさぞやりにくかったことは想像できる。しかしすし屋の倅に生まれた峰 厚介は職人気質、楽器を持たせればプロ中のプロでもある。このアルバムでもきっちりと良い仕事をしている。

峰 厚介が退団した時、本田 竹広の中にも当然「ネイティブ・サン解散」の文字は頭にあったはず。しかしそうしなかったのはこのネイティブ・サンというバンドで自分の考えている音楽を出し尽くしていないと感じていたからだ。本田 竹広が音楽的試みを行う余地はこのバンドにはまだ残っていた。

それに現実的な問題もあった。
後期のネイティブ・サンは絶頂期と比べれば人気・コンサートでの集客力もガタ落ちしてはいたものの、特に地方ではまだ知名度と神通力は強力に効いていた。ツアーを組む時、ネイティブ・サンの名前を出せばブッキングは容易に可能だったし、実際各地の主宰者からの出演要望も多かった。
また4作目の『SHINING』リリース前後から、このバンドのマネージメントを一気に引き受ける「ネイティブサン・ブラザーズ&カンパニー」というオフィスも設立していたから、本田さんにしてみれば経済的なことも含めて簡単においそれとネイティブ・サンの看板を降ろすことなど出来なかったのだ。

メンバーも大幅にチェンジした。『DAY BREAK』からは米木 康志と実息・本田 珠也をリズム・セクションに、また峰 厚介が抜けた後にはサックスに藤原 幹典を迎え「ネイティブ・サン・ポップ路線」の布陣は出来上がる。
あとはこのバンドに沿った曲を書けば良かった。

だがしかし、この頃不幸が再びバンドを襲う。
ネイティブ・サンにとっては肝心要、バンドの頭脳ともいえる本田 竹広の作曲力に陰りが見え始めるのだ。

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ネイティブ・サンのポップ路線と曲作りの苦悩■

本田 竹広の頭を悩ませていたのはレコーディングのための曲作りだった。
もともと本田さんという人はインスピレーションの人である。自然発生的なアイデアに身を任せて、これまであれ程の素晴らしい楽曲を提供してきたのだ。そんな人がレコード会社からの要請で、しかも限られた時間の中で良い曲が書けるはずもない。
晩年、本田 竹広と会ってネイティブ・サンの話になると必ずといっていい程この頃の曲作りの苦しさを語っていたものだ。契約があるからたとえ自分で満足がいかない曲であってもレコーディングに臨まなければならないというのは、もともとジャズ・ミュージシャンだった本田さんにとっては、さぞ辛かったろうと思う。

ポップ路線を走り始めた後期のネイティブ・サンにとっては、激しいアドリブの応酬やメンバー間でのインタープレイといったことより、何よりも提供された曲の出来不出来がバンドの演奏内容を大きく左右する。聴衆の耳目を引きそうなおいしいメロディを備えた楽曲がなければバンドの魅力は半減してしまうからだ。
そういう意味で、この時期の本田さんの作曲スランプは痛い。
実際『DAY BREAK』『VEER』 『AGUNCHA』といったネイティブ・サン後期のアルバム郡には、どの曲とあえて挙げないが「本田 竹広が書いた曲にしてはちょっと。。。。」と、首を傾げざるを得ないものもある。

後期のネイティブ・サンはいよいよ窮地に追い込まれていく。

 以下、〜検証:ネイティブ・サン(5)〜へ続く