〜検証:ネイティブ・サン(5)〜


本田 竹曠&ブレイクアウト

ところで、ネイティブ・サン後期の80年代半ば、本田 竹広がもうひとつのバンドで活動していたのは、あまり知られていない。1985年2月に結成された、幻のソウル・バンド『本田 竹曠&ブレイクアウト』。
メンバーは本田 竹広(Key)、宮本 典子(vo)大出 元信(g)、深町 栄(Key)、中平 エイジ(b)、成田 昭彦(ds)、遠藤 ケロ(Cho) という大所帯バンドで、主に都内のライブハウスで活動、しかしながら短期間で解散している。
(因みにその後、ボーカルの宮本 典子とベースの中平 エイジは結婚。二人は居住をニューヨークに移す)

この『本田 竹曠&ブレイクアウト』名義によるアルバムは、一枚も残されていない。
しかしながら、その前年1984年7月には宮本典子のリーダー・アルバムとして『SWEET SUGAR』がリリースされている。この作品には本田 竹広が全面参加、また『本田 竹曠&ブレイクアウト』のライブでは、この『SWEET SUGAR』収録の曲が多く演奏されていたから、ある意味ではこのアルバムを聴けば、この幻のソウル・バンドの片鱗を聴くことが出来る。

この『本田 竹曠&ブレイクアウト』、唯一ともいえるライブ音源が、筆者の手元にある。
この音源元は、今でも放送されているNKH-FM「セッション」に同バンドが出演した時のもので、データには【[SESSION'85]NHK-FM、1985年11月16日放送】とある。

演奏曲目は@ブレーク・アウトのテーマ(本田 竹曠作曲) Aラブ・ザ・ワン・ユー・ウィル Bウォント・ユー・ステイ・ウィズ・ミー(中平エイジ作曲) Cアナザー・ラバー Dラブ・イズ・ノー・ダウトの5曲、後半3曲には峰 厚介(ts)が加わっている。つまり本田 竹広を中心に、ネイティブ・サンのギタリストとサックス奏者が参加しているわけで、どうしても後期ネイティブ・サンと聴き比べをせずにはいられない。

聴いた印象派は、まさに「ボーカル入りの後期ネイティブ・サン」。ただし宮本典子のキャラクターを前面に出しているせいか、ポップスというよりはソウル、ブルースといったブラック・ミュージック色がかなり強い。(因みにネイティブ・サンは結成から解散まで、本格的にブラック・ミュージックに挑むことはなかった)

これはどう見るべきだろう。
当時の本田 竹広はネイティブ・サンに物足りない部分を感じていたのだろうか。確かに純然たるインストゥルメンタル・バンドだったネイティブ・サンに、ボーカルを加入させるのには無理があっただろう。だからボーカルをフロントにした別のバンドを、わざわざ作ったとも考えられる。(本田 竹広は弘田三枝子の歌伴が音楽的スタートというのをみても分かる通り、ボーカルに対する思いが特に強い)


しかしながら、この音源を聴く限りは、どうも『本田 竹曠&ブレイクアウト』は音楽的に未消化な部分が多い。オリジナル曲が少なく、ブラック・ミュージックからのカヴァー曲が多いため、和製バンドとしては中途半端な印象を受ける。
メンバーとしては「ソウルもブルースもジャズも」と欲張ったのだろうが、リスナーにしてみれば「ソウルでもない、ブルースでもない、ジャズでもない」ようなバンドとして映ってしまう。

『本田 竹曠&ブレイクアウト』が短期間で解散したというのは、ある意味で仕方がないことだったろう。
だが本田 竹広は生涯に渡って「ブラック・ミュージックを基調としたボーカル入りのバンドを結成したい」という夢を持っていた。

これが本田 竹広が、最晩年に結成した「ザ・ピュア」まで、綿々と綴られていったのは云うまでもない。



  以下、〜検証:ネイティブ・サン(6)〜へ続く