〜検証:ネイティブ・サン(6)〜



ネイティブ・サンの解散、そしてジャズへの回帰■

『本田 竹曠&ブレイクアウト』、そして後期ネイティブ・サンと、この頃の本田 竹広はジャズ以外の音楽に夢中だったようにもみえる。これは本田 竹広の師匠ともいえる渡辺 貞夫の影響が強かったからかも知れない。
「貞夫さんがあっちの音楽(注:ジャズ以外のジャンル)に行っちゃったから、俺もあっちの方に行った」という旨の発言もあるし、当時の音楽シーンの中では「オーソドックスなスタイルでジャズを演奏するのは新味がなくて格好悪い」という風潮さえあった。

ただし峰 厚介はネイティブ・サン脱退後にはいち早くジャズに戻り、そして本田 竹広もバンド解散後はジャズに回帰してゆくという流れを、いま冷静に振り返ってみると『本田 竹曠&ブレイクアウト』や後期ネイティブ・サンでの本田 竹広の悪戦苦闘振りは、彼にとって「フュージョン・ミュージシャンとしての最後のあがき」のようにも思える。
「ネイティブ・サン解散」の思いは峰 厚介が去った時にも感じていた事だったが、今やその時期は現実的なものとして刻一刻と迫っていた。

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■ライブで本領を発揮するネイティブ・サンの魅力■

峰 厚介が抜けて藤原 幹典が参加してからの後期ネイティブ・サンの音楽は、今では形として残っている『DAY BREAK』、『VEER』、 『AGUNCHA』といった種々のアルバムでしか聴けない。
一番残念なのは、この頃のライブでの音源がほとんど残っていないという事実である。
たとえバンドとしてのモチベーションが落ちていた時期とはいえ、ライブでのステージではお行儀の良いアルバム郡とはまったく違ったエネルギーに満ちた熱演の連続だったことは容易に想像出来る。
ネイティブ・サンは結成から解散まで、一貫してライブでこそ本領を発揮するバンドというのに変わりはなかったからだ。

デビュー時の爆発的な人気ゆえに前期中期のネイティブ・サンは大きなホールでの仕事が多かったものの、不幸中の幸いというべきか、後期ネイティブ・サンは絶頂期に比べて集客力も落ちていたから、会場も大きなハコから狭いライブハウスへと移っていた。
ネイティブ・サン発祥の地が高円寺「JIROKICHI」だったことからも分かるように、もともとこのバンドの音楽的なスケール感はあくまでライブハウスという狭いハコを前提にしたものだった。つまりネイティブ・サンはライブハウスでこそ燃えるのだ。
それを実証するように本田 竹広が最晩年、高円寺「JIROKICHI」で度々開いていた「ネイティブ・サン同窓会ライブ」でのステージは圧巻だった。筆者もこれらの音源を耳にする度、こんな歳になっても身震いするような興奮を覚える。

だから後期のネイティブ・サンは一般的には「落ち目になったフュージョン・バンド」という見方をされるものの、アルバムだけを聴いて評価してはならない。ライブに行ってこそ、このバンドの真実が見えてくる。
それは何度もいうようにリーダーの本田さんを始めメンバーがジャズ・フィールドからのミュージシャンが多いという点、バンド自体がサウンド的にその時その時右往左往したということもあるだろう。
ネイティブ・サンとは結成から解散まで、そんなバンドだった。

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■Takehiro Honda&Native Son■

ネイティブ・サンというバンドの魅力は初期の『NATIVE SON』、『SAVANNA HOT-LINE』、ライブ盤『COAST TO COAST』の3枚に、ほぼ集約されている。
「これからネイティブ・サンを聴きたい」という方には、私も迷うことなくこれらの作品を勧めるだろう。
だが、私は一般的に評価が低い中期後期のネイティブ・サンの作品『RESORT』『GUMBO』、そして『DAY BREAK』『VEER』 『AGUNCHA』といったアルバム郡が駄作だとは決して思わない。
確かに音楽的な欠点はいくらでもある。しかし中期後期のネイティブ・サンには本田 竹広の悪戦苦闘ぶりが如実に記録されている。
満身創痍となりつつ、それでも孤軍奮闘しながらネイティブ・サンの看板を護り続けた、彼の姿に心打たれるのだ。

     
▲ネイティブ・サン後期のアルバム群(左から):『DAY BREAK』 『VEER』 『AGUNCHA

ネイティブ・サン最後のアルバム『AGUNCHA』にはジャケットに「Takehiro Honda&Native Son」とクレジットされている。私はこれにも深い感慨を覚えてしまう。
これまでの「Native Son」ではなく、その上に敢えて「Takehiro Honda&」と付け加えた本田さんに、バンド・リーダーとしての矜持を感じてしまうからだ。

確かにネイティブ・サンは「本田 竹広」がリーダーだった。そしてバンドを始めたのも終わらせたのも「Takehiro Honda」だった。

『AGUNCHA』のジャケットを見る度、そこに写っている無垢で汚れのないアフリカの少女の瞳の奥に、結成当時爆発的な人気を誇っていた絶頂時のネイティブ・サンの雄姿が重なって見える。


 以下、〜検証:Native Son(7) 総論・まとめとして〜へ続く