〜川端 民生〜



ネイティブ・サンのボトムを支えた初代ベーシスト■

ネイティブ・サン結成時のオリジナル・メンバーは本田 竹広(kbds,perc)、峰 厚介(ts,ss)、大出 元信(el-g)、川端 民生(el-b)、村上寛(ds)である。

このメンバーでデビュー・アルバム『NATIVE SON』、セカンド・アルバム『SAVANNA HOT-LINE』をレコーディングした後は、サックスが峰 厚介→藤原 幹典、ドラムスが村上 寛→ルイス・ディ・アンドレード(ただしツアーのみの臨時参加)→セシル・モンロー→本田 珠也となる。
一番メンバー・チェンジが激しかったのはベースのポジションで、川端 民生→ロミー 木下→グレッグ・リー→米木 康志と続く。
逆に結成から解散までバンドと行を共にして変わらなかったのが大出 元信のギターということになる。

結果的にみれば、少なくともバンドの人気度と残されたアルバムからいえば、ついにオリジナル・メンバー以上のミュージシャンは集まらなかったといって良いかも知れない。この5人のメンバーによる『NATIVE SON』と『SAVANNA HOT-LINE』は、それだけネイティブ・サンというバンドのエッセンスがもれなくパッケージされているということであり、これに異論をはさむファンはいないだろう。

ところでネイティブ・サンといえば、一番・本田 竹広、二番・峰 厚介、三番・村上 寛ときて、残りの川端 民生と大出 元信の二人はあまり語られることがないように思える。筆者はこれが非常に残念だ。やはり初期のネイティブ・サンは、この二人がいなければ、どうもしっくりこないのである。
そこで当サイトでは、あまり陽の当たることがないように思える陰の功労者、川端 民生と大出 元信にスポットを当ててみたい。


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〔川端 民生〕(通称:バタやん)
川端 民生の経歴はネットの百科事典『ウィキペディア』によると「川端 民生(かわばた たみお)は1947年7月10日生まれ、北海道出身のベーシスト。主にジャズ、フュージョンの領域で活躍。主な共演者は、向井 滋春、浅川 マキ、渋谷 毅、小沢 健二など。1978年「ネイティブ・サン」結成に参加。エレキベース、ウッドベースの両方を演奏した。2000年7月26日、膵臓ガンにより死去」とある。
少なくとも、ネット上ではこれ以上の情報は発見出来ず、逆にいえば川端 民生の音楽活動はこれが全てといえるかも知れない。リーダー・アルバムは一作も作らず、自己のバンドを結成して派手に活動することもなく、サイドメンとしてレコーディングしたアルバムはネイティブ・サンを含めて10数枚のみ。スタジオ・ミュージシャンとして、多忙を極めるということも特になかったこのベーシストは、まさに日本のジャズ界の裏街道をひたひたと寡黙に歩んできたといえる。

ネイティブ・サンに川端 民生が参加したのは、当時の本田 竹広トリオのベーシストを務めていたのが彼だったからに他ならないが、それ以上の参加理由があったのかどうかは、今となっては分からない。
ただし本田さんはネイティブ・サンに関しては川端 民生のベース・プレイに終生、愛着を持っていたのは事実である。
最晩年、紀尾井リサイタルを終えた後、再スタートを切るのに当たって本田さんは新しいバンドでの活動を模索し始めた。関係者が「ネイティブ・サンをアコースティック風に演奏するバンドでのレコーディングはどうか?」と提案したところ、本田さんは一蹴したという。理由は「バタやんがいないから」。このエピソードを思い起こす度、やはり本田さんは川端 民生のベース・プレイが好きだったのだな、と痛感する。

筆者はベース・マニアでもなく、また楽器を操る趣味も持っていないから音楽上の川端 民生のベース・プレイを知ったかぶりをして、あれこれと論じるつもりはまったくない。テクニックがうんぬんとか、奏法のスタイルやらにも興味はない。
しかし川端 民生についてひとつだけ言えるのは、同業のベース奏者から多大な敬意と愛情を受けていたことだ。
川端 民生の死去が報じられた数日後、たまたまベーシストの高橋 ゲタ夫と話す機会があった。コーヒーを飲んでいて自然と話は、亡くなった川端 民生の話題になっていた。
彼は言う。「バタやんのプレイは凄いよ。どんなサウンドの中に身を置いても、たじろぐことがないでしょ。ベース一本でバンドのボトムをしっかりと支えている。古澤 良治郎バンドでのプレイ聴いたことある?古澤さんや峰さんが、あれだけ羽目をはずせるっていうのは、やっぱりバタさんがいるから。絶対的な安心感があるからね」
高橋 ゲタ夫は基本的にはラテン・ジャズの人であり、川端 民生とはまったく逆タイプのベーシストだと思っていたから、その頃彼の話を聞いて意外な印象を持ったのを覚えている。
しかし、その後、様々なベーシストや関係者から川端 民生に関する「賞賛」を聞く度に、彼の「裏方職人としての凄さ」「地味で目立たない、小さいけれど大きな偉業」を感じてうれしくなった。

筆者は生前の川端 民生とは、一度も話をする機会がないまま終わった。しかし話をするきっかけは一度だけあった。
2000年2月、高円寺のライブハウス「JIROKICHI」でのネイティブ・サン同窓会ライブに、オリジナル・メンバーが集まった。(ただしドラムスのみ、村上 寛の仕事の都合で本田 珠也が代役を務める)
ライブがはけた後、楽屋に行くと、そこに峰 厚介と川端 民生がいた。
筆者はたまたま手に持っていたカメラで二人を撮影したのだが、それがこの写真である。

▲(左から)峰 厚介と川端 民生
撮影:2000年2月13日
場所:高円寺 ライブハウス「JIROKICHI」
にて

その時は川端 民生が重大な病を抱えていたとは知らなかったから、何か彼に言葉を掛けていたらと今でも思う。
この撮影の約半年後、川端 民生は脾臓ガンで亡くなってしまうのだ。


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川端 民生が掴み取ろうとしたもの■

ところで川端 民生がネイティブ・サンのメンバーとして最後に立った、この日のステージにはちょっとした想い出がある。
あれはひとつの曲を演奏した後、次の曲に移るまでのインターバル(間隔)でのことだった。
川端 民生が譜面を持って、いきなりパタパタと虚空を仰いで何かを掃おうとし始めたのだ。彼の頭上に、何か虫でも泳いでいたのか。さらに彼は譜面と自らの手で、その虫のようなものを挟んで取ろうとする。「JIROKICHI」は狭い店だし、ステージはあってないようなものだから、蚊やハエのような虫だとしたら、観客席にいる筆者たちにも少しは見えるはず。
しかし少なくともこちらからは、その虫のようなものはまったく見えない。つまり川端 民生は、他人から見れば「そこにはないもの」ではあるが、自分にとっては「気になって仕方がないもの」を、必死になって掴み取ろうとしているらしかった。その動きはある意味ではユーモラスだが、同時に奇妙にも見えた。

すぐ隣にいた本田 竹広も、この川端 民生の行動に気付いて「あれっ」という視線を向ける。ステージ上にいる本田さんにも、どうやらその虫らしきものは見えないらしい。
「バタやん、お前、何やってんだ」という眼で、しばらく彼の行動を"観察"する。いかにも「お前、仕方ないヤツだなあ」という風に。
川端 民生はとうとう目的のものを掴むことが出来なかったのか諦めて譜面を置き、やがてメンバーは何事もなかったかのように次の演奏を始めた。。。。。

いま、この光景を振り返り冷静に考えてみると、ちょっと笑いがこみ上げてくる。
つまり「他人は関係ないが、自分にとってはどうしても気になるもの」を必死に掴み取ろうとした川端 民生の姿と、それを冷静に眺めて「お前、何やってんだ。仕方ないヤツだなあ」という視線を向ける本田 竹広の姿は、そのままネイティブ・サンというバンドのなかでのお互いの関係と、そのポジションを如実に映し出しているように思えたからだ。

ステージで演奏する川端 民生がこの時、自らの重い病を知っていたのかどうかは、今となっては分からない。
しかし、ふっと思うのだ。
あの時、川端 民生はステージの上で何を掴み取ろうとしていたのか。そしてその何かをついに掴み取ることが出来たのだろうか、と。
そして、その「何か」は決して他人には見えないが、確実に川端 民生にだけは見えるものだったはずである。

経済的には決して恵まれていたとはいえなかった川端 民生の音楽人生の中で、サイドメンとして参加、唯一ポピュラーな人気を得たのがネイティブ・サンでもある。
そのバンドのステージの上で「何かを掴み取ろう」とした彼のその姿は、そのままバタやんの音楽家としてのストレートな心情が溢れているように思えてくるのだ。


  以下、〜大出 元信〜へ続く