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ケイ 赤城 インタビュー 〜マイルス・デイヴィス バンド(3)篇〜


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マイルスの訃報を聞いたときは、信じられなかったです。そう、まったく突然という感じでした。もちろんその頃、私はマイルスのバンドを退団していたわけですが本当にびっくりしました。
ある日の朝、レナード・フェザー(注:著名なジャズ評論家)から電話が掛かってきて「ケイ、マイルスが死につつあるっていう噂を聞いたんだけど、本当か?」って彼が言うんですよ。それですぐニューヨークのマイルスのマネージング・オフィスに電話を掛けたら、「それは根も葉もない噂だ」と言うんです。

実はその日、私はあるジャズ・フェスティバルに出演することになっていて、その電話の後に会場に行ったら「マイルスが亡くなった」という情報が周囲から流れていまして...。私も「まさか!」という気持ちでいっぱいでした。でも確認したら、紛れもなく親分=マイルスは亡くなったんです。しばらくは放心状態でしたね。
マイルスという人は絵の世界で言えば、パブロ・ピカソですよ。マイルスの真似をしようと思っている人はたくさんいますが、マイルスはただ一人、マイルスだけなんです。

マイルスは音を一発吹いただけで、マイルスの音だと分かるでしょ。
私がマイルスのバンドに在籍していた頃はコンサートがあると、大体セット最初の3曲目くらいまでは決まっているんです。でもその後はどんな曲を演奏するのかはまったく決まっていない。しかし、マイルスがトランペットで音を一発吹いただけでメンバーは「あ、この曲だな」と分かるんです。

いや、本当にすぐ分かるんですよ、ステージにいるメンバー全員が。何の迷いもなく!それだけ彼はトランペットの音色の中に、曲そのものを組み込んでるわけです。そんな音色を曲によって使い分けている。素晴らしいですよね。そうした人を私は他に知りません。でもそれが本当のミュージシャンなんじゃないか、とつくづく思いましたね。

1991年に私がマイルスのバンドを去った時、マイルスに「親分、ありがとう」と言える機会がありませんでした。それがずっと心残りだったのですが、1998年にマイルスに捧げて作った私のアルバム『new smiles and traveled miles』でやっと自分なりの感謝の気持ちが言えたと思っています。振り返ってみるとマイルスの元を退団してから、このアルバムを吹き込むまで、実に7年の歳月が流れています。

私の曲は「全てマイルスに捧げた演奏曲」なんですよね。  


(以下、ケイ 赤城インタビュー 〜 自己の音楽観について に続く)